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川添 裕 『パソコン編集執筆術』


第1回 1 はじめに
第2回 2 猫がこわしたハードディスク
第3回 3 ネット経由の方法とひろがり



パソコン編集執筆術 1 はじめに
ホースケ君とカバとクマ
 二十年近く前に、今は亡き漫画家の福地泡介氏とパソコン教室にかよったことがある。念のためだが、ホースケ君お得意の麻雀教室ではなく、まぎれもなきパソコン教室にである。
 当時、筆者が籍を置いていた平凡社の雑誌『太陽』で企画を考え、お誘いしたところ、ちょうどやってみたかったとのことで、秋葉原の「NECビットイン東京・マイコンセミナー」に体験入学したのであった。さすが『コンチキ社員』やのちの『ドーモ君』で知られたサラリーマン漫画の達人、社会の動静への関心は高かったのである。  
 この頃おさだまりのBASIC(ベーシック)を学ぶ初級コースで、教室の使用マシンはPC-8001(当初の発売は1979年、標準搭載RAMは16KB)。勉強の第一歩は、ヒンメイ、タンカ、スウリョウ、キンガクを入れ、ゴウケイをだすというプログラムの実習であった。ここで例題に使われていたのが、カバ、クマ、サル、イヌといった動物たち。つまり、カバの単価は120円で数量が50だから6000円、クマはいくら、サルはいくら、イヌはいくらとやって、合計金額をだすのである。  
 カバとかクマというのは、むずかしいパソコンを少しでも親しみやすくという、世にありがちな発想であったのだろうが、別にパソコンに不慣れなだけで、幼稚園児ではないのだから、ちょっと馬鹿にされた気分であった。「ホースケ君のパソコン挑戦」がのった『太陽』をみると、「なんだ、バカバカしい。なにもこんなことコンピュータで、えらいテマヒマかけてやらなくたって」と、福地氏もレポートしている。背広を着た十数人の中年サラリーマンが、いっせいにKABAと入力する姿を想像してほしい。  
 じつは筆者にとって、こうした例題の入力は、はじめてではなかった。というのも、少し前に、平凡社からおなじ教室に派遣されていたからである。なぜ、いったのか、もはやさだかに思いだせないが、ともあれ、多少は勝手を知ったる場所ということで、編集記者としてこのセミナーへ福地さんをお連れした経緯と記憶する。  
 歳月をへても、カバとクマの記憶だけは鮮明であり、これは初期のパソコンをめぐる象徴的な出来事であり、出会いであったように思う。
電算機からネットワークメディアへ
 そんなわけで、パソコンとの接近遭遇は、文系の編集者としては比較的早いことになる。だが、気分的にいえばこの「カバとクマ」ゆえに、格好をつけていえば一種の批評的抵抗感ゆえに、さらに踏み込んで日常的に接することはしなかった。  
  出版社のなかで、コンピュータは経理、総務、営業などが使う業務用の電算機であり、編集とはあまり縁がないものという意識が強かったのである。印刷所にしても、雑誌や大型企画では電算写植がある程度進んでいたが、一般書籍はまだ活版中心の時代であった。  
 しかし、1980年代なかば頃からワープロ専用機の広汎な普及があり、書籍の編集部に異動していた筆者が、はじめて1冊分のフロッピー原稿を著者から貰ったのは1986年のこと。そうした趨勢に対応する必要もあって、いくつかのワープロ専用機を会社で使うようになる。おなじく一世を風靡したPC-98シリーズを含め、フロッピー入稿の形態は、電算写植化の流れと連繋した。また、やはり同時期に、アメリカに留学していた友人の何人かがMac(Macintosh 512KやMacintosh Plus)をもち帰り、親しみやすいGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)マシンの魅力にひかれるようになった。  
 そして、パソコンがたんなる計算機ではなく、コミュニケーションの道具として、いわばメディアとして、面白いのではないかと考えるようになったのは、『コミュニケーション事典』(平凡社)の編集作業を通してである。鶴見俊輔、粉川哲夫の両氏に編集委員をお願いした同事典の刊行は1988年。それに先立ち、さまざまなやりとりをし、お教えをいただいたが、ネットワークとして結ばれたコンピュータが、良きにつけ悪しきにつけ、今後の重要なコミュニケーションの回路になるという視点は、もっとも啓発された事柄のひとつであった。  
 事典の巻頭に入れた両氏の対話には、「パソコン・ネットワークと連歌の精神」「身体とハイテクノロジー」「身ぶりの記憶、〈場所〉としての人間」「多様な日本語、ことばの自由化」といった見出しがみえ、粉川氏がかかわっていたネット上の掲示板「自由ラジオ・カフェ」も話題としてとりあげている。  
 室謙二氏が執筆した「パソコン」という項目の最終部は、「電子ディジタル信号のコミュニケーションは、まだ始まったばかりではあるが、いまやすごい勢いで音・映像・文字の領域で広がっている。そしてこれは、これから何十年かの間にいっそう広がっていくものと思われる。(中略)パソコンは、それ1台だけで孤立していては、たいした働きをすることができない。あるかたちでパソコンどうしがつながっていくこと、そのことによってよりいっそう、メディアとして、コミュニケーションの道具として働くようになる」と記されており、的を射た、噛みくだいた記述ぶりに、あらためて敬意を表したくなる。  
 1980年代後半から2001年現在にいたる潮流とは、まさしくその通りであり、日本におけるインターネット商用化のはじまりは1992年から93年(例えば、IIJの会社設立は1992年12月、インターネット接続サービス開始は1993年11月)、そしておよそ1995年前後から世間の注目を集めるようになり(例えば、インプレスの『インターネットマガジン』創刊は1994年9月、月刊化は1995年6月号から)、その後の加速度的なネット社会の進展は、誰もが知るところだろう。  
 Macを編集の道具とするようになっていた筆者も、インターネットへはまずIIJのダイアルアップサービスを介してつながり、1995年なかばから計画を練りだして、平凡社のネットワークメディア化の責任者を、編集部と兼務することとなる。だが、これとは別個に、社の歴史とともにあった枢要な出版物の版権を実質的に売り渡し、大手電機メーカーとデジタル合弁事業をはじめる事態が出来し、当初、構想していたネットワークメディア化は中途半端とならざるをえないまま、1998年夏に筆者は平凡社を退いた(デジタル合弁会社は危惧した通りうまくいかず、その後、消滅した)。  
 しかしこの間、今福龍太氏とウェブ上でのコラボレーション「カフェ・クレオール」を独自に展開し、カレン・テイ・ヤマシタ氏、マリーズ・コンデ氏といった海外の作家や管啓次郎氏らの参加をえて、従来にない試みができたことは何より楽しかったし、新しいメディアがもつ刺激の質と、一面での限界、問題点も、少しずつほのみえた気がしている。  
 また副産物として、UNIXサーバー(FreeBSD、Solaris)やWindowsNTサーバーによるネット構築から、データベース連繋、セキュリティ対策、ウェブ制作、Windows・Macのクライアントマシン管理を、むりやり集中して勉強することとなり、編集兼務のネット稼業は不惑を超えた身にはこたえたが(結局、毎年十冊強の本もつくり続けた)、デジタルメディアへの理解は、自分なりにいくつかの次元を超えて進んだように思う。技術面に関しては、旧友の山形和弥氏が社長を務める、マイトベーシックサービスのSEたち(鈴木隆史氏、田上雅機氏)の的確な助言、指導、支援がありがたかった。
複眼の視点

 『パソコン編集執筆術』と題した本連載は、以上に述べた体験と、2000年1月に創設され講師となった、日本エディタースクールの「パソコン企画編集コース」における指導経験(受講生は現役編集者、編集経験者、編集志望者。年齢は二十代から四十代が中心)に基づきながら、パソコン活用の話を進めていこうというものだが、そこにはふたつの方向性があることを、あらかじめ記しておきたい。  
 まずひとつは、冒頭にふれたような「カバとクマ」はなしに、あくまで編集執筆の現場を前提に、具体的にパソコンの話をするということである。つまり、抽象的な「一般向き」の話ではなく、編集の視点が第一の核となる。また、現在の筆者は、執筆と教職をむしろ仕事の中心にしており、見世物、歌舞伎、落語などの江戸時代の芸能が、一方での年来の研究対象であった。こうした執筆の立場、芸能史研究の立場、大学や市民講座での講義の立場も、具体例などでおのずと顔をだすことになるだろう。  
 さて、以上はごく大まかに、編集と執筆のためのパソコン実用集、ととっていただいてよいが、他方では、デジタルメディアというものが、本や雑誌といったメディアとどれほど異質で無縁かという視点が、もうひとつの方向性となる。  
 出版でとことん使うというのと、出版とどれほど違うかというのは、矛盾のように聞こえるかもしれない。しかし筆者には、こうした複眼こそが、今もっとも必要な視点と思えてならない。  
 本と電子メディアの接近は、たしかに、これまでにない可能性を生み、ある種の生産性を高める要素をもつ。それは間違いない。だが元来、電子メディアと活字メディアは決定的に違うものであり、コンピュータと本をそのまま摺り合わせるような風潮は、両方のメディアの特性を殺しかねない。あえて、わかりやすい比喩でいえば、『ジュラシック・パーク』や『マトリックス』のCGは面白いのに、出版の枠組みに囲われたデジタルはしばしばなさけなく、また、オン・ディマンド・コピー(いわゆる「オン・デマンド出版」)は便利で実用的な気がするが、楽しみの読書としてはいまひとつ手にとる気がしない、これらをどう意識化するかの問題といってよい。  
 ところで、筆者はいま「見世物探偵が行く」(『グラフィケーション』富士ゼロックス)という実地探訪の連載をしている。そこでは例えば、ベトナムの大道や水上人形小屋で生身に感じる刺激と恍惚は、当然ながら活字メディアにも、映像メディアにも、インターネットのメディアにも、とうてい置き換えがたいものである。  
 じつはこうした距離の意識からしか、表現するという行為も、編集するという行為も、あるいは、遊ぶという行為も生まれないように思うが、その距離感の希薄さと、等距離化、並列化は、良い意味でも悪い意味でも、ますます現代の社会・文化・経済をおおう徴候といってよい。いうまでもなく、意図的にこの距離を変えるポジティブな行為は魅力的だし、デジタルメディアはそれに向いている。しかし、今日の日本の出版界では、無自覚に、あるいは苦しまぎれに、距離を曖昧化して、不幸を招く例もみるのである。  
 その意味で本連載は、全体の8割以上を実用集に徹するつもりだが、少数のポイント、ポイントでは上記のメディアをめぐる視点、およそこのスタイルで進めていきたいと思う。
(2001年10月9日成稿)




パソコン編集執筆術 2 猫がこわしたハードディスク
瞬時に消えるデータ
 猫がぴょんと床から飛び上がった瞬間に、それはおこった。
 わが家ではパティという名の三毛猫を飼っている。体重5.5キロ。少し重めかもしれない。この猫が、家内のノートパソコンを直撃したのである。買ってまだひと月ばかりのApple iBookであった。
 すぐに、キューン、キューン、キューンという異音が聞こえてきたそうだ。
 「そうだ」というのは、正確には筆者は現場に居合わせなかったからで、その直後に帰宅して、涼しい顔の猫と、あわれなノートパソコンにご対面とあいなったのである。つれあいによると、机でパソコンを使っている最中に電話がかかってきて、立ち上がって受話器をとった直後に、猫がねらいすましたように飛びのったとのこと。蓋(ふた)を閉じていればまだよかったのだが、開いた状態であり、5.5キロの重量がキーボード直下の精密部に打撃を与えたようだ。
 すでに切ってあった電源を入れ直すと、通電後すぐに妙な音がして先へすすまない。電源を切り、キーボードを上げて音の出所を確かめると、まぎれもなくハードディスクの位置だ。文字通りのクラッシュであった。

 猫が開いた状態のノートパソコンに飛びのり、ハードディスクが駄目になってデータが消えるというのは、むろん、ちょっと変わった例である。
 しかし、コンピュータ歴の長いひとなら誰もが体験するように、ハードディスクは何もしなくても、つまり、ふつうに使っているだけでも、ときに不良となりデータへのアクセスができなくなる場合がある。
 最近5、6年の筆者の所有マシンにかぎっても、デスクトップ型Macの内蔵ハードディスクが一度、WindowsNTサーバーの外付ハードディスクが一度と、計二度のクラッシュがあり、出版社時代の周囲や、知人、友人、また、教鞭(きょうべん)をとる学校の教室などを含めれば、こうした事例はどこでも耳にする話といってよい。
 念のためにいうと、その頻度は全体としてみればそれほど高いわけではない。しかし、低い確率ながら、ある一定の率では必ず生じる不可避の事柄なのである。
 さらに、範囲をフロッピーディスクやMOディスク、またCD系メディアといったポータブル媒体にひろげれば、これらも何らかの不良によりエラーとなって、データを読めないことがときにおこるのである。とくにフロッピーディスクの場合、それまで問題なく使用していたものが、ある日なぜか読めなくなったという経験を、読者のなかでもされたかたが多いのではないだろうか。筆者自身、何度もしてきた体験である。
 いうまでもなく、こうした事態は、そこに記録されたデータの消失にしばしば直結することになる。
 コンピュータではときにデータが消える。
 しかも場合によっては、一瞬にして、自分に何の咎(とが)がなくても消える。
 それが原稿ファイルであれば、ほかならぬ原稿そのものが消える可能性がある。
 じつはこれは、われわれがコンピュータで仕事をする際、まず配慮すべき最大の前提のひとつといってよい。実際には上記のディスクトラブルだけにかぎらず、他のさまざまな要因(メインボードほかボード類の不調、電源や電池の不調、メモリー系の不調、ソフト面の不調等)によっても、一時的または永久にデータへアクセスできなくなる事態は生ずるのである。
転ばぬ先のバックアップ

 例えば、著者からもらった原稿ファイルが消えたらどうなるか。
 もしそうであったとしても、ここで「わたしは悪くない」などと主張してみてもはじまらない。
 もちろん、ほとんどの場合、著者の側に元ファイルがあるはずだ。それをもう一度もらい直せばいいわけだが(というより、それしかないわけだが)、大なり小なり信用を失うことは確実で、少なくとも体裁のいい話ではない。個人でも会社でも厳しくむずかしい相手なら、怒られてもう原稿を渡してくれない、出入り禁止ということだってありうるだろう。
 しかし、もっと恐ろしいのは元ファイルがないという場合である。新しいパソコンだけ使っていると、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、少し前のワープロ専用機にせよ、古い時代のPC98シリーズにせよ、ユーザデータの記憶方法が基本的にフロッピーディスクしかないタイプのマシンがあり、ひとによってはそのオリジナルのフロッピーを、複製をつくらず送ってくる場合がある。冗談ではなく、世の中には本当にそういうひとも存在するのであり、フロッピーデータを失うことは、そのまま原稿の消滅を意味する。
 上のケースは最近ではさすがに珍しいが、さいわい元ファイルはのこっていても、出版社の側で何カ月もかかって作業をおこなってきた編集ファイルが消えるという事態は、何の策も講じなければ、当然おこりうる。
 同様の状況は、執筆者にとってはさらに痛手で、書下ろし途上の1年、2年かかった原稿が、あっという間に消えることもありうるのである。考えるだに、恐ろしい筋書である。
 個人的な感覚でいえば、2、3日の仕事が消えても、まあ立ち直りは早いと思う。完全に同一の文章は書けないにせよ、締め切りにせめられていれば、すぐにやり直せるだろう。これが1カ月となるとショックは相当に長びき、もし1年以上の仕事が消えたりしたら、その原稿に関しては当分(あるいは永久に)、立ち直れないという気がしてならない。
 そうならないためには、要するに「バックアップ」。これしかないのである。
 紙の原稿というものは、長年の職業経験でいえば、そうそう滅多なことではなくならない。とくに、過失なしになくなることはまずない。しかし、それにくらべてファイル原稿は、たとえ過失がなくとも、一瞬にして消える場合がある。そしてバックアップがなければ、文字通り致命傷となりかねない。
 だが、公平にいっておくと、逆にバックアップさえしておけば、パソコンはやはり便利で効率的な編集執筆のツールである。全体としてポジティブな役割をはたす道具であるからこそ、使い続けるためにはバックアップなのであり、その意識をもちさえすれば、これほど容易に同一の複製をバックアップしやすい装置は、世の中にないのである。

バックアップの方法

 さて、ここでは編集執筆の仕事で中心となる、原稿ファイルまたは編集ファイルを念頭に、個人がバックアップをするという観点を中心に記したいと思う。むろん、ちょっとしたメモ書きデータにせよ、DTPファイルにせよ、メールボックスにせよ、住所録やスケジュールにせよ、表計算ファイルや手軽なデータベースにせよ、およそテキストと静止画像を主体とするものなら、これに準じて考えていただいてよい(以下、全般に2001年現在の状況を前提に記す)。
 まず手元に、著者からもらった原稿ファイルなり、その編集途上のファイルなり、自分が執筆中の原稿ファイルなりがあるとしよう。著者から渡された原稿ファイルの場合、実際には、もらった現状そのままのファイルはひとつとっておき、手をいれる(編集作業をする、原稿整理をする)ためのコピーファイルの作成が第一に必要だが、これに関してはファイルの更新保管ポリシーやファイル名の話題とともに、回をあらためてふれようと思う。
 日本エディタースクールの授業でバックアップの話をすると、自分はハードディスクだけでなく「フロッピーにも保管してあるから大丈夫だ」というひとがいるが、これは率直におすすめしない。
 理由はいくつかあって、すでに記したように、フロッピーディスクは記憶媒体としては相対的にやや脆弱(ぜいじゃく)なメディアであり、また、容量が1.44MB(商品としての公称容量。以下同)と小さいために大きなファイルや多量のファイルが入らず、継続的に仕事をするうえでは整理管理上、不便だからである。
 バックアップがないよりは、フロッピーでもあったほうがよいが、記憶媒体として今後の発展性がとぼしいこともあり、わざわざあらたに選択する手段ではない。ただし、単体として値段がもっとも安いフロッピーディスクは、やりとりの際の手渡し用メディア、一時的な保管メディアとしては、依然として大きな利点をもっている。
 バックアップを考える際、個人レベルでのポピュラーな方法としては、以下のあたりが第一群となる。
    1 外付ハードディスク
    2 MOディスク
    3 CD-RW  
 1の外付ハードディスクは、内蔵ハードディスクと異なりパソコン本体と電源が別個となり、物理的にも切り離しやすいというメリットがある。汎用的な接続インタフェース(USBやIEEE1394という方式)にしておけば、何かあったとき他のパソコンとつなぐことで、すぐにデータをとりだしやすい。最新の何十GBとか何百GBといった大容量ディスクなら、文字中心の原稿ファイル、DTPファイル、静止画像ファイルなどは、それほどファイルサイズを気にせずいくらでもバックアップできるはずだ。
 2のMOディスクの場合は、当然ながらMOドライブ装置も必要となる。ディスク容量としては128MB、230MB、540MB、640MB、1.3GBがあるが、現状でポピュラーなのは640MBのものであり、1.3GBは最新の大容量サイズである。MOは世界的にみると、必ずしもポピュラーな記憶媒体とはいえないが、日本では非常によく使われてきた。出版界ではDTPファイルの携行目的(いわゆる「出力屋」渡し、印刷所渡し、出版社渡し)などで、用いられることが多い。
 今も記したように、こうしたポータブルメディアの場合、バックアップの視点に加え、携行して他とやりとりできるという互換性、汎用性も考慮したほうが、現実的メリットはより大きくなる。
 その点で優れているのが、3のCD-RWである。なぜなら、近年の多くのパソコンには、このメディアを読みとり可能なドライブ装置(CD-ROM、CD-RW、DVD-ROM等)が標準で備わっているからだ。
 ただし、バックアップをとる場合を含め、自分がそのメディアにデータを書き込むためには、CD-RWのドライブ装置が必要であり、かつ、書き込み用のソフトも必要となる。慣れれば作成は容易であり、バックアップ目的でも、DTPファイルなどの携行目的でも、活用するひとは多い。容量は650MBが標準である(なお、書き込みが一度しかできないタイプのCD-Rもあるが、新規に買うなら、何度でも書き換え可能なCD-RWをおすすめする)。
 1、2、3のどれが良いかは、一長一短があり、個々人の使用目的や仕事環境も異なるので一概にいいにくい。
 大まかに、外付ハードディスクはもっとも多量のファイルを高速にバックアップしやすいが、携行性では劣る(通常は携行すべきではない)。その点でMOとCD-RWのメディアは手軽にもち歩けて便利だが、容量面で不満を感じる場合がある。この両メディアを比較すると、どちらかといえば、MOは細かく追記、書き換えをするのに向いており、CD-RWはある程度まとめて書き込むのに向いているように思う。長期のランニングコストを考えると、1MB当たりの記録経済性では、CD-RW(まとめ買いで650MBディスク1枚が150〜200円前後)が、MO(まとめ買いで640MBディスク1枚が500〜600円前後)に勝り、この観点では外付ハードディスクまでを含め、すべてがフロッピーディスク(まとめ買いで1.44MBディスク1枚が30円前後)より経済的である。
 結局のところ、当人が使いづらければ仕方がない面も強く、自分の環境にあわせて、また最終的には自己の責任において、決めていただければと思う。あるいは、社内でのグループワークや取引先との関係が優先される場合は、その論理、やり方に合わせておくほうが、何かと都合はいいかもしれない。
 しかし、いずれにせよ、最低どれかひとつはバックアップの策が絶対に必要であり、さらにいえば、下記(および次回に記す方法)も含め、状況に合わせて複数を組み合わせて実践することをおすすめする。
 なお、ほかに、ノートパソコンでよく用いられるPCカード型の記憶メディア(フラッシュメモリーカード、コンパクトフラッシュカード、マイクロドライブ等)も便利な手段であり、デスクトップパソコンに対応のリーダー装置を付けておけば、共通して利用することができる。また、DVD系メディア(DVD-ROM、DVD-RAM、DVD-R、DVD-RW)は今後の発展可能性が高く、ビデオムービーを含むサイズの大きいデータ記録では、すでに有力な手段として用いられている(ただし、標準化の面での問題はいくつかある)。さらに、テープディバイスによるバックアップなど(筆者が使うUNIX[IRIX]マシンでもDDS-2のテープを用いている)、あげだせばまだいくつかあるが、個人がローカルにバックアップをおこなうポピュラーな方法として、およそ以上をあげた次第である。

 さて、今回の最後にとっておきの「追加手段」をひとつ。
 それは大事なものはプリントアウトしておくことである。
 別に読者を煙に巻こうとしているわけではない。実際、プリントアウト(ハードコピー)があって救われたという話は、枚挙にいとまがないのである。加えて、キャリアの長い力量のある編集者、校正者なら誰もが体感として知っているが、プリントアウト紙、さらには版面として組まれた校正紙のほうが、どういうものか、間違いや問題は見つけやすい。こと出版社に関するかぎり、絵に描いたようにきれいでクリーンなオフィスというものを、筆者は信用しない。どこも紙の山、これはひとつの王道である。
(2001年11月28日成稿)




パソコン編集執筆術 3 ネット経由の方法とひろがり
 1台、1台の孤立したパソコンがネットワークとして結ばれることで、コミュニケーションの道具としての次元を変え、活用の範囲をぐっとひろげることは、最初の回でふれたとおりである。1990年代なかば以降のインターネットやイントラネット(intranet インターネット技術を組織内のLANに利用した「内部ネットワーク」)の広範な普及により、すでにそれは多くのひとにとって実感となったことだろう。
 データのバックアップという点でも、ネットワークは重要な媒介手段となる。
 前回は、個々のパソコンと周辺機器のレベルで、いわばローカルにデータをバックアップする必要とその方法を記したが、ここではネットワーク経由のものにふれておきたいと思う。
 ネットワーク経由の方法は、たんなるバックアップの用途にとどまらず、同時に、ファイルのやりとりや共有の手段、データ公開の手段、また、いわゆる「ユービキタス」なメディアとしても利用可能であり(後述)、その意味で多元的なひろがりをもつ重要な話題なのである。
瞬時に消えるデータ
 さまざまな場でLAN(ラン=Local Area Network 社内、オフィス内、キャンパス内あるいは自宅内など、あるエリア内でのコンピュータネットワーク)が一般化した今日、例えば職場のパソコン同士でフォルダ(ディレクトリ)の共有をおこない、ファイルのやりとりをした経験は、多くのひとがおもちだろう。
 LANに接続しインターネットを利用しているような近年のWindowsマシン同士(Windows 95以降)、またMacintoshマシン同士なら、いくつか設定を加えるだけで共有が可能であり、仲間と相談して約束事を決めておけば、他機のローカルディスク領域をバックアップでも使うことができる。
 ちなみに、わが家のつれあい(やはり江戸文化史研究者で大学教員)も、猫の直撃でApple iBookのハードディスクがクラッシュして以降、原稿類など重要なファイルは、LAN経由で筆者が使うMacの共有フォルダへバックアップしている(AppleShareを利用)。いうまでもなく「丸秘」のファイルは別、であろう。
 全般にそれほど規模が大きくない出版系のオフィスでは、メールやウェブは外部の資源をレンタル利用して、職場内にはとくにサーバーなど立てず、単純に何台かのマシンをネットワークで結んで(物理的には各マシンに接続されたイーサーネットケーブルと、その集線装置としてのハブ)、ルーターを介してまとめて外部のインターネットへ接続するというシンプルな構成が多数派のはずだ(日本エディタースクールの場合もそうだ)。上に述べたやりかたは、そうした内部ネットでのもっとも手軽な方法といってよい。
 むろん、そのままでは出版界に多いWindows、Mac(とくにDTP用)が混在する環境下で、異なるOS同士のやりとりができない。しかし、これもソフトウエアによる解決が可能であり、PC MACLAN(Windows側にインストール)またはDAVE(Mac側にインストール)といったユーティリティソフトを購入して用いれば、スムーズにファイル共有、プリンター共有などは実現できる。
 インターネットはもちろんのこと、内部ネットでの資源共有、やりとりのメリットは大きく、もし常時稼働するマシンが複数台あるならば、まずは単純な構成でもとにかくネットワークを組むことをおすすめする。ネットワークというとむずかしく考えがちだが、例えばWindows Me以降のマシン同士なら、「ホームネットワークウイザード」にしたがっていくだけで、簡単に内部のネットワークが構成される。たとえ最少2台だけのピア・ツー・ピア(peer-to-peer)のネットワークでも、立派なネットワークなのである。

 一方、より本格のかたちとしては、ここ6、7年のイントラネット構築ではWindows NT Server(version 3.51、4.0。のちWindows 2000、Windows XP Professionalの系列に継承)を導入し、クライアント/サーバー型のネットワークをつくるのが典型であり、出版界でも大手中堅にその例が比較的多くあった。
 用語の解説をしておけば、サーバー(マシン)は、ネットワークの中核でさまざまな処理、管理をおこない「サービスを提供する存在=server」。クライアント(マシン)は、独立的な処理をおこないながらも、サーバーに対しては基本的に「サービスを依頼要求して利便をうる存在=client」であり、要は一般ユーザーのマシンを指す。
 筆者がかつて1996年に平凡社で責任者となって実行したネットワーク化でも、外側のインターネットサーバーはすべてUNIX(FreeBSDとSolaris)にしたが、イントラネットサーバーにはWindows NTを用いた。
 Windows NTで社内ドメインのユーザー管理、共有管理、権限管理等を一括しておこない、これに種々のサーバー用ソフト、例えばMicrosoft SQL ServerやOracleをのせればデータベースの構築連繋で多様なことができる。グループウェアなどと呼ばれるアプリケーションの利用が可能だし、また国語辞典、百科事典のネットワーク対応版やそのライセンスを買って、職場共通の辞書サーバーとして利用するのも、とくに編集者には便利なはずだ。
 前回からの流れのバックアップでいえば、サーバーに設置されたローカルディスクを、社内ユーザーがネットワーク経由でシェアするのがポピュラーな方法で、Windows NTのサービスメニューに「File Server for Macintosh」を追加しておけば、WindowsだけでなくMacからもふつうにディスクを利用できる。各ユーザー毎のフォルダ(ホームディレクトリ)、メンバー限定のグループ共有フォルダ、全ユーザーにパブリックな共有フォルダなどをつくり、用途別に使い分けてバックアップやコラボレーションをするのが、およそ一般的なやりかたである。
 また、ディスクとして、RAIDディスク装置(RAID=「レイド」と読む。複数台のハードディスクを使って、データの分散書き込み、ミラーリング=同一データの複数台への書き込み、データ形式のエラーチェックと訂正などをおこない、信頼性の高い、高速大容量の記憶処理を実現させる装置)を用いれば、より確実に多重化されたバックアップが可能となる。あるいは、テープによるバックアップを併用し、多重化してもよいだろう。

 さて、先にふれたシンプルな方式にせよ、上に述べたやや本格のものにせよ、ネットワーク化をおこなって共有、シェア、コラボレーションをすすめれば、各レベルで活用の範囲がひろがっていくが、ただし、基本的な利用ルールとセキュリティを含めたポリシー(何を、どこまで、誰が、いつ、共有するか。具体的には、共有の対象とするファイルやフォルダの選択、アクセス権の種別[読み取り専用か、変更や削除も可能なフルアクセスか]、ユーザーアカウントとそのグループ所属、パスワードとその利用タイプや期限、等々)は決めておかないと、思わぬ問題も生じかねないので注意が必要である。
 ところで、今これを読んで、そんな七面倒臭いことやっていられるかと思ったあなた。茶化すわけではなく、あなたは典型的な出版人、根っからの編集者タイプにちがいない。いや、じつは書いている当人も、「半分」はそう思っているのだ。
 教科書的に書いたのは、やはり義務としてはそう記すべきだからで、それはそれとしてどうか真摯に受けとめていただきたい。これがサーバー管理業務の基本であり、厳格な用途のサーバーで管理をあやふやにしていると、必ず困った事態をまねくことになる。また、業務上の秘密事項や、他人に読まれると恥になるファイルを、それと知らずにパブリックな状態のフォルダに入れ、結果として公開してしまったという悲喜劇は、あちこちで耳にするのである。
 しかし一方で、わさわさと雑然たるありさまの編集部的カルチャーと、今ふれた細かい管理の話には、基本的にムード上の齟齬があり、そもそも、そこにさける金も人手も乏しいのが大方の現実だろう。
 両者を呑み込んでいうと、筆者の考え方は次のようなものだ。
 まず、ネットワークはメリットがあるから使う。ポジティブな面を第一に考えて使うということだ。「極秘事項」などというものはしばしば迷惑な場合も多いので、極秘ならどうぞ胸のなかや金庫だけにしまってもらい、それはそれとして、外にだせるものはなるべくだし合う発想をもちたい。そうした意味で、他人と共通の場があることはそれだけでもメリットがあり、よりすすんで議論や協働が生まれればありがたいことだ。その方向に、とにかくプラス価値をみいだしていこうというのがネットワークの精神だろう。これは基本的に、編集のカルチャーとよく似たものといってよかろう。
 しかし、物理的なコンピュータネットワークでいえば、そのための管理の手間がメリットを上回ってしまっては本末転倒である。「メリット>管理の手間や費用」という関係は、当然ながら鉄則である。
 サーバーがあって誰かがきちんと管理してくれるなら、そのけっこうな環境を積極的に利用すればよいが、よくわからぬままにサーバーを立て、仕事の全体がいわば「サーバー倒れ」になるのはつまらないことである。また例えば、とくにセキュリティ上の心配が少ない内部のサーバーで、編集系のものなら、仕事の空気に合わせて「ほどほどの管理」が現実的だろう(経理などの仕事はそうはいかないが)。
 そして、何も本格のクライアント/サーバーでなくとも、前述の単純構成のLANにおいて、接続する1台のふつうのパソコンを原則的に個人用途からはずし、しかるべき共有設定のうえ、原稿のバックアップや情報公開、やりとりの場として、編集部でゆるやかに活用するのもよい。じつはこれだけで、役割としては立派なファイルサーバーなのだが、そのマシンでメールやウェブを使わないようにすれば、ウイルス感染の危険も少ない。
 小規模なら小規模なりに、ネットワークのメリットをひきだす方法はあり、少し事情に詳しい人間がひとりいれば、小さな手間でさらなるメリットをひきだせるのがネットワークである。

 そして今、ネットといえばもちろんインターネット。
 昨年(2001年)はまた一段と、ウイルス、セキュリティなどの問題が世上をにぎわせ、筆者のところにも沢山のウイルス付きメールが送られてきた。知り合いからの助けてくれというSOSコールも何度かあった。自身のウェブを置くUNIXサーバー(実際には領域をシェアしている)へのアクセスログをチェックしていても、ウイルス関連の異常アクセスがとくに2001年9月下旬以降は頻繁に確認された。
 セキュリティ意識と知識が必要。それは誰にとってもおろそかにできない真実だが、しかし、ここでもマイナス面ばかりをみていては面白くない。インターネットにおいてはなおのこと、先にふれたネットワークの精神でプラス価値をみていきたいし、そもそもオープンポリシーはインターネット形成史における本質的な事柄である。
 インターネットの資源総体をめぐる話と、ウイルス、セキュリティに関しては、それぞれ回を分けてまた別にふれるつもりだが、以下、これまでの延長上の話題として、インターネットディスクについてふれておくことにする。
転ばぬ先のバックアップ

 インターネットディスクとは、ひとことでいえば、インターネット上のサーバー付設のディスクへアクセスをし、そのディスクスペースに、ネット経由でファイルの保管などをおこなう仕組みである。
 考え方として、内部ネットの場合同様、ネットでつながっているかぎりそれは当然可能なわけだが、ただ従来そうはいっても、通常のユーザーが自前でやるには敷居が高い面があった。それが最近、使いやすいかたちのサービスとして提供されはじめ、発展の気配をみせている。
 「インターネットディスク」「インターネットストレージ」「オンラインストレージ」(ストレージ=storage 倉庫、保管場所、保管する記憶装置)などと通称され、提供する側それぞれのサービス名もあるのでややこしいが、ここでは「インターネットディスク」で統一しておく。
 これらのサービスでは、データの保管のみならず、同時にインターネットを介しての、おなじみの共有、情報公開、アプリケーションの機能支援といったサービスを併設する場合が多く、インターネットへの高速接続が普及するなか、充分使える現実的なサービスとなりつつある。
 筆者が実際に使用経験のあるものから、比較的著名な会社が運営するサービスを3つだけあげると、
    InternetDisk(ジャストシステム)
    iDisk(Apple) ※iTools中の1サービス
    Share Stage(NTT Communications)
であり、ジャストシステムの「InternetDisk」の説明には、「インターネットディスクは、インターネット上に自分専用のディスクスペースを持つことができるサービスです。複数のパソコンから同じファイルを操作したり、パソコンのリプレースの時に一時的にファイルを保管するなど、使い方はあなた次第」云々と記されている。
 また、Appleの「iDisk」の説明にも、「インターネット上にあるので、いつでもどこからでも接続できます」とあるように、大きなメリットのひとつは、サービスを提供するサーバーはどの環境からみてもつねにインターネット上にあるわけだから、例えば、職場のパソコンからでも、自宅のパソコンからでも、また出先からでも、外国の旅先からでも、おなじように利用できるということだ。
 利用する側からみてこうしたどこにでもある状態を、近年はやりの用語で「ユービキタス」(ubiquitous いたるところにある、遍在する)、また同類のことばで「オムニプレゼント」(omnipresent)というが、インターネットディスクは根本的にユービキタスなメディアといってよい。
 事務所で原稿を書いていて家にもち帰ろうとする場合、フロッピーディスクなどの携帯メディアでもち帰る方法のほか、自宅で使える自分のメールアドレス宛にメール添付ファイルで送るというひとが、筆者の周囲には多い(これは正当なひとつのテクニックである)。NTT Communicationsの「Share Stage」の説明は、その辺まで見越しており、「ShareStageを使えば、メールにデータを添付したり、フロッピーを持ち歩いたりする必要ナシ!」(ディスクサービスの説明原文)と宣言している。
 個々人の使い勝手があるので、一概にどれが良いかはいいにくいものの、3社すべてに他のメンバーと何かを共有する仕組みが併設されるのは、やはりネットワークの特性である。むろん、何をどう共有するかは、セキュリティを勘案しつつ意識的にやる必要はあるが、ポジティブな面を押しだせば、例えば遠く離れた外国の知己とインターネットを介して手軽に共有ができるわけだ。
 以下、各サービスの特徴に簡単にふれておこう(2002年2月1日時点)。
 ジャストシステムの「InternetDisk」は、Windowsでのみ利用が可能である。日本語入力ソフトのATOK(エイトック)やワープロソフトの一太郎などを買うと、登録のうえ20MBとか50MBを無料で使えるようになっていて、有料での容量拡張も可能である。専用ツールをパソコンにインストールして使うかたちで、原稿ファイルのバックアップには使い勝手がいい。一太郎を使用中の環境からは、より直接的な連繋の仕組みが考えられている。
 Appleの「iDisk」は、「iTools」という一連のサービスのひとつで、他にメールアドレス提供、ホームページ、電子グリーティングカードなどのサービスがある。Mac OS 9以上の環境で使用可能な登録制のサービスで、専用ツールをインストールしたうえでブラウザーを利用して使う。「iDisk」は無料で20MBが提供され、有償の拡張が可能。また最近は、Windows 98 SEやWindows 2000からもアクセスできるようになったので、MacとWindowsのやりとりもできる。多彩な面白いサービスでWebObjectsというすぐれた技術が使われている。ただ、やりとりの時間は他より少しかかる。
 NTT Communicationsの「Share Stage」は、ブラウザーだけで利用可能な登録制のサービスで、Windowsからでも、Macからでも、またUNIXからでも使える。その意味では、もっともユービキタスなメディアであり、ディスクは「ウェブストレージ」といった感覚である。無料で50MBが提供され、有償で拡張できる。ディスク以外のメニューに、「ブックマーク」と「オートログイン」がある。名前の通り、全体としては「シェア」に重点がおかれている。
 なお、詳しくは各提供者のウェブに概要説明と利用規約、同意条項等がのっており、利用者はそれにしたがうことになる。成長中のサービス分野なので、1GBのストレージで月500円程度のかたちで、このほかにもいろいろなものが存在する。
 上記の無料20MBとか無料50MBの容量では、画像などを入れだすとつらいが、多くの編集者、執筆者が日常的に扱うテキスト原稿なら、じつは充分に使い勝手のある容量である。プレーンテキストファイルなら、1.44MBのフロッピーディスクでも400字1700枚ほどの原稿が入ることをご存じだろうか。ちなみに、自著の『江戸の見世物』(岩波新書)でいえば、原稿ファイルの合計容量はプレーンテキストで236KB、つまり20MBは本の何十冊分にも相当する。勝手な職業的解釈だが、20MBとか50MBの容量はテキスト原稿向きにみえる。筆者は実際このサービスを、よく原稿のバックアップ用途でも使っている。

 大きな自然災害や事件で、あらゆるデータが消滅。あるいは事故や火事でデータが烏有(うゆう)に帰す。
 情報が加速度的にデジタル化されている現在、大企業のシステム部門にとっては、こうしたリスク回避は切実な課題である。方策としては、第一に遠隔地でのバックアップデータ保全、あわせて耐震耐火の強固なストレージセンターの利用などがおこなわれている。いうまでもなく個々の編集者、執筆者にはそれは大袈裟としても、このインターネットディスクは、個人で「それなり」の遠隔地バックアップをする方策のひとつといえる。
 そんな話をしていて、わがつれあいから呈された疑問は、例えば地震で家がつぶれたとき自分が生きている保証はどこにあるの。死んだらデータのバックアップなんて意味がないじゃない、もっとすべきことがほかにあるんじゃない。
 これは確かに正論である。
 だがしかし、どうも小生としては、書下ろし中の1冊の原稿、本にする予定の連載原稿などは、インターネットディスク(あるいは同様な、自由に使えるサーバーの隠し領域または公開領域)に入れておかないと居心地が悪い。この辺になると、結局は、ひとそれぞれというところか。
 いろいろと書いてきたが、バックアップの話の方から締めくくると、実践していく発想の根本は、やりやすいかたちを自然に習慣化することと、何が本当に大事なデータかを切り分けることであろう。
 習慣化とは、例えば仕事をやっていて昼めしにでようとするとき、また職場をでるとき、あるいはトイレに立つときなどと、バックアップをするタイミングを決めて日常になじませることだ。むろん、原稿をもらったらまずそのファイルをバックアップ、これは基本である。ところで、世の中には大量のファイルがバックアップ(コピー)されていく様子を、じっと眺めているひとがときどきいるが、これはばかばかしい。操作をしてコピーの動作がはじまったら、席を離れてひと息入れる、これが自然な習慣である。そうでなければ嫌になる。
 また、何でもかんでもバックアップばかりしていては、肝腎の仕事の方が進まない。編集執筆でもっとも大事なものは、つまるところ原稿のはずであり、なかでも、「かたち」(本、雑誌等)になる前の進行中の原稿やデータであろう。ひとによってはそれに、「手帳」に相当するデータ、「ノート」に相当するデータなどが続くのだろうか。システムまるごとのバックアップは別の話題だが、サーバー機などの場合を別にして、個人的にはあまり役に立ったという記憶がない。
 以上ふたつの切り口で、前回のローカルなもの、今回のネット経由のものから選択し、「これはなくすと本当にやばい」と感じるものは、両者を組み合わせて多重化すればよい。自分なりにきちんと習慣化さえしていれば、ここでも編集執筆系には「ほどほど」が肝腎で(要するに1日に何度も何度もすることはない)、コンピュータの前にばかり座っていても、ネットにばかりはまっていても、何かをつくりだしていく「人間のネットワーク」「物のネットワーク」はできない。
 だからわれわれは外にでていく。そして安心してでていくためにこそバックアップ、なのかもしれない。
(2002年2月1日成稿)



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